流れに従って流れに任せない

「法華経」というお経の16章「如来寿量品」では

「仏は永遠に存在し、始まりも終わりもない」

と説かれています。

釈迦族の王子として生まれたお釈迦様に始まりがないとはどういう事なのでしょうか。そして終わりがないというならば、今でも願えばお釈迦様に会えるのでしょうか?

十七世紀にニュートンは「リンゴが落ちるのは、引力があるからだ」という万有引力の法則を発見しました。しかしニュートンが法則を発見する前からもちろんリンゴは落ちます。ニュートンは科学的真理を発見しただけで、遥か昔から引力は存在していました。

仏様とは悟った人、この世の真理を発見した人という意味です。そして真理はお釈迦様が発見する前から存在します。つまりはこのお経の中で説かれる「仏」とは、この世の真理そのものなのです。だからこそ始まりも終わりもなく、永遠に存在しているのです。

しかしながら私達は目に見えない物は存在しないと思いがちです。だからこそ、生きている時のお釈迦様の姿を思い浮かべ、お会いしたい、お説法を聞かせて頂きたいと思ってしまいます。それは目に見える成果を直ぐに求めてしまう人の業ゆえなのかもしれません。

この章の中では

「真っ直ぐに、そして心柔らかに、仏を見たいと欲しなさい」

とも書かれています。

水は柔らかく、その形に合わせて流れます。しかし流されるだけでは目的地にはたどり着けません。しかし目的地に向かって、山や道路を無視して真っ直ぐに進む人はいません。道に合わせて曲がりながら、悟りという目的地に向かって、心は真っ直ぐに進んでいきなさい。と説きます。

今時代の変化の時で、大きな流れがうねっています。そして悪戯に流れに逆らおうとすると溺れてしまいます。仏様は今もこの教えの中で、ただ流されるのではなく流れに従いながらも諦めず、心柔らかに前に進んでいく姿を示してくれているように感じました。

松原泰道先生の「いろはに法華経」を参考に書かせて頂きました。

ここからは知的好奇心の悪戯ですので、もの好きな方以外読み飛ばして下さい笑

法華経の緻密で知的な所は、真逆の物事を一つの話で表すという、二面性と統一性を兼ね備えているという事だと思います。

表面として、お釈迦様は亡くなった後も常に存在する。そして常に人々を救おうと願っている。だから仏に手を合わせて祈れば大丈夫だから、安心しなさい。という考えずに信じれば良いという立場を表しています。

そして内面として、釈迦は死んだ。釈迦の骨を祀り、仏像に手を合わせてるような追い求め方をしてはいけない。大切なのは法という存在で釈迦という存在ではない。だから釈迦に縋らず、仏の教えを頼りに自分で考え、励みなさい。という考えて現実の行動に表さなければいけないという立場があります。

信じれば救われると説く事と、信じるだけでは救われないんだと説くこと、真逆の事を一つのお話の一つの流れの中で表現しています。何故こんな事が必要なのか?

今日本は、随分と物質に満たされて、権利も保障されている社会です。しかしそうでなかった時代もあれば、今でもそうではない地域も沢山あります。そういった中では、一部の人を除いて、皆が難しいことを理解するだけの教養を得る機会も、余裕もありません。そんな時に難しい事を求められると逆に辛くなり、余計に受け入れる事ができません。今の目の前の心の救いを必要としている人が沢山います。そういった方々にもこの教えが受け入れられ、救いとなるように表面のお話があります。

しかしそれは方便であって真理ではありません。仏に頼る事で安心を得たとしてもそれは一時的なもので、真の安心ではない。真の安心を得るためには、人に頼ってはいけない。正しい教えを頼りに、自分自身の心を頼れる存在に育てて行かなければいけない。という事が本当に伝えたい内面の部分になります。

内面の部分は、今辛く生きることに困っているときに言われても、そうしようとは思えません。目の前の問題に対処するとことで精一杯だからです。しかし決して忘れてはいけない部分でもあります。忘れてしまえば、常に自分の心は人と環境に振り回され続けて生きなければいけないからです。

法華経は一仏乗の教えと言われます。誰も取りこぼさず全ての人を救う教えだと。表面は仏の慈悲を、内面は仏の智慧を表しているのだと思います。そしてこの様な比喩を用いて二つの意味をもつお話が法華経全体に散りばめられています。

法華経は文面だけ読むと、非現実的な物語の様な世界が描かれています。その文底にはとても現実的な意味が込められています。仏の巧みな教えとはまさにこのことだなと、考えれば考えるほど味わい深いお経だなと思います。

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