法華経ダイジェスト

1. はじめに

「ドラマで読む法華経」

はじめて『法華経』を開いた皆さんは、きっと次のように思うでしょう。「この壮大な物語は、私たちの人生にどう関わりがあるのだろうか?」

数ある仏教経典の中でも「最第一の教えである」(『妙法蓮華経法師品第10』)とお釈迦さまご自身がそう宣言され、人々から「諸経の王」とまで賛美されてきた法華経。

しかし、私たちが法華経をただの「壮大な夢物語」として私たちの人生から切り離して読んだのであれば、それはけっしてお釈迦さまの本意とは言えません。

文学、歴史学、芸術、科学とさまざまな角度から読まれてきた法華経ですが、説き手であるお釈迦さまの心に最も適う読み方をされたのが、13世紀日本に誕生し自ら「法華経の行者」と名乗った傑僧、日蓮聖人です。日蓮聖人は、法華経全体を一つのドラマとして捉え、そしてそのドラマチックな場面すべてに自分自身を投影して読まれました。

このような読み方が出来たからこそ、日蓮聖人は多くの迫害や誘惑に負けることなく、法華経の説く理想世界をこの世に実現しようと力強く生きられたのです。これを、法華経を現実に体現して読むという意味で「色読」といいます。これこそ、お釈迦さまが私たちに求める法華経の読み方なのです。

私たちも自身を法華経のドラマに飛び込ませて読んでみることで、一見すると現実離れした教えが、私たちの暮らしの中でのエネルギーとなり躍動するはずです。

これから要点を押さえながら、ダイジェストで法華経をドラマとして読み進めて参ります。まずは、皆さんがお釈迦さまの前に座っているとイメージすることが大切です。そうして、お釈迦さまの声に耳を傾けてみましょう。

2. 序品第一

「お釈迦さまの眉間の光」

舞台はインドの霊鷲山。二千数百年ほど時間をタイムスリップいたします。山頂中央、静かに座るお釈迦さまは72歳。

お釈迦さまのお説法を聞く為、続々と集まる群衆の数は優に万を超えました。多くは袈裟を着けたお坊さん(比丘)や尼さん(比丘尼)、男の信者さん(優婆塞)や女の信者さん(優婆夷)で年齢や職業はみな千差万別。その中には、父を殺した阿闍世王も家来を従えやって来ました。

私達の目には見えませんが、天上地上、水中や空中に住む神々も来ているようです。お経には天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽などと書かれて登場しています。集まる顔ぶれを見渡すと、老若男女、聖人悪人、善神悪神、それぞれ生きる境遇や世界は違いますが、みんなお釈迦さまのファンなのです。

この多種多様なあらゆる人格をまず認めてくれるお釈迦さまのでっかい心の器。誰でも入れるその門こそ、法華経の入り口です。

その時です。空から花びらが舞降り、地面は静かに揺れ動きました。そして、お釈迦さまの眉間からは光が放たれ、遠く東を照らし出したのです。これに驚いた弥勒菩薩は物知りな文殊菩薩にこの現象の理由を聞きます。

「ふむ、これはお釈迦さまがこれから一番大事なお説法をされる前触れに違いない。」

さて、経典に説かれる数々の不思議な現象は、私たちの心のはたらきを、目に見える形にして表現しています。これから説かれる大法を前に、大衆の歓びや感謝を花びらに、膨らむ期待心を大地の震動として描いているのです。そしてお釈迦さまから放たれた眉間の光は、私達の無限の可能性を映す奇瑞です。

人間の良きも悪しきもすべてを普く照らし、救い出す智慧と慈悲の大光。いよいよ法華経の説法が始まるのです。

3. 方便品第二

「教えの統一」

お釈迦さまは、静かに立ち上がり、弟子たちのリーダ舎利弗に語り始めました。

「私が悟ったただ一つの真実の法は、とても奥深いものです。舎利弗さん、あなたでも理解はできないでしょう」

この第一声にお弟子たちは衝撃を受けました。なぜなら舎利弗は、弟子たちの中で最も優秀で「智慧第一」と言われた方だったからです。

舎利弗を含む当時のお弟子たちは「声聞」や「縁覚」と呼ばれる欲を断じ尽くした聖者で、合わせて「二乗」と呼ばれるエリートグループに属していました。舎利弗は、お釈迦さまに次のように三度懇願しました。

「どうか真実をお説きください。私たちはお釈迦さまの言葉を信じます」

お釈迦さまは舎利弗の「信じる」という言葉に安堵したようです。法華経は頭で理解するのではなく、信じることで体得できる教えだからです。

「それでは私が生まれてきた唯一つの目的を話しましょう。それは皆さんを仏にするためです。生きとし生ける者は誰しも仏となる可能性を持って生れたのです。ではその仏とはいったい何でしょうか?私の人生は、それを皆さんに身を持ってお見せし、説明し、体験してもらい、仏の道を歩む人を一人でも多く育てることでした」

法華経の大きなテーマは、「みんな仏になれる」という仏教の原点を説いています。しかし、舎利弗をはじめ「二乗」と呼ばれる彼らは、お釈迦さまを尊敬するあまり、自分達がお釈迦さまのような「仏」になることなど出来ないと考えていたのです。

冒頭のお釈迦さまの厳しい言葉は、まず彼らの固定概念を打ち破り「あなたも仏となれるんだよ!」と伝えたいがためにとった巧みな手段だったのです。

この真実へと導くための手段を「方便」といいます。お釈迦さまが、これまで説いてきた様々な「方便の教え」はこの「真実の教え」である『法華経』に集約され統一されるのです。

4. 法師品第十、宝塔品第十一

「法華経サミット開幕」

「みんな仏になれる」というお釈迦さまの言葉を信じ、受け取ったお弟子たち。

舎利弗を始め、四大声聞の須菩提、加旃延、迦葉、目連などの「二乗」と呼ばれるお弟子たちはみんな、お釈迦さまから「あなたも仏となれるよ」という言葉をもらいました。これを「授記」といい、その印としてお釈迦さまから「仏の名前」を頂いたのです。

「たとえ私が亡くなった後でも、この法華経の一句でも聞き喜ぶ者には授記を与えましょう」

お釈迦さまは、このように参集したすべての者に「授記」を与え終えた時でした。

何という事でしょう!地面から宝物で飾られた巨大な美しい塔が出現したのです。それは空中へと浮かび上がったかと思うと、中から厳かではっきりとした声が聞こえてくるのです。

「よきかな。よきかな。世に尊きお釈迦さま。この法華経はみなこれ真実である」

声の主は、多宝如来という仏でした。

するとお釈迦さまは、全宇宙に存在するすべての仏を瞬時にこの霊鷲山に呼び集め、空中に浮かぶ宝塔の扉を開き、多宝如来と共に並んで座られたのです。

この時、不思議と霊鷲山にいた全ての聴衆も空中に浮かんでいました。

この空間を「虚空」といいます。ここから法華経説法の舞台は、時間も空間も超越した「虚空会」となります。お釈迦さまは、この宝塔の内から大衆に告げました。

「誰か私の滅後にこの法華経を説き弘めてくれるものはいないか?」

 この光景を見ていると、まるでサミットのようです。

まさに法華経は、一大仏教の未来を決めるサミット。そのシンボルが宝塔であり、参集した無数の仏さまは、その行末を見守る為ここに集結したゲストです。

議題は一つ「お釈迦さま滅後、誰が法華経を説き弘めるのか?」

法華経サミットはここに開幕したのです。

5. 提婆達多品第十二

「悪人提婆と龍女の成仏」

法華経は「みんな仏となれる」ことを説く経典であると言いましたが、それを具体的に説いたのがこの12章です。

お釈迦さまの従弟、提婆達多は、嫉みの心が強く何度もお釈迦さまに怪我をさせ、命まで奪おうとした悪人として有名でした。しかし、お釈迦さまの見解は違ったのです。

「彼は過去世において、私に法華経を教えてくれた師であり、未来に天王如来という仏になるべき人である」と新事実を告げたのです。

大衆は驚きました。しかし、人は誰しも悪しき教えよって「悪人」になり、正しい教えによって「仏」にもなる可能性を平等に秘めているという法華経の重要な教えに気がついたのです。

その時、聴衆の一人で経験豊富な文殊菩薩は、智積菩薩に教えました。

「海に住む娑竭羅龍王の娘は、歳わずか八歳にして仏さまの真実の教えを学ぶ心を起こし、法華経を聞いて、瞬時に仏になったのですよ」

それを聞いた智積菩薩や智慧第一の舎利弗でさえ、この話を信用できませんでした。なぜなら、女性は偏見によって差別され、仏にはなれない存在とされていたからです。そこへ、当事者の幼き龍女が颯爽と現れるのです。

「よーく見ておいてくださいね」

そう言うと、龍女はあっという間に変身し、法華経を説いて人々を導く姿を大衆に見せたのです。幼き龍女が、立派な仏になったことは誰の目にも明らかでした。

龍女の成仏を疑い反論していた舎利弗や智積菩薩もこれを目の当りにし、黙るより他なかったようです。

ここで忘れてはならない事は、龍女は幼い子供であること。その上、人ではなく龍であるということです。この龍女の成仏は、女性や子供や動物でも「誰しも仏になれる」という法華経の教えを事実として示したのです

6. 従地涌出品第十五

「スーパーヒーロ現る」

「誰か私の滅後にこの法華経を説き弘めてくれる者はいないか?」という呼びかけに対し、多くの菩薩が名乗りをあげたのですが、お釈迦さまは「その必要はない」と彼らの申し出を断りました。

「この娑婆世界には六万恒河沙という夥しい数の菩薩がいるのです。彼らこそ私の滅後、法華経を説く人です」
お釈迦さまの声に応じるかのように、霊鷲山の大地が割れました。そして、清水が涌き出るように、ガンジス川の砂の総数の六万倍という無数の光り輝く高貴な菩薩たちが次々に現れたのです。

彼らこそ、法華経に説かれるスーパーヒーロ「地涌の菩薩」です。お釈迦さまは自身の滅後、この法華経の教えを世に弘め、世界を平和な仏国土にする為に、特別な人材を密かに育てていたのです。

大地を割って現れたという事が大切です。この地を救う者は、神々のような空の上の特別な存在ではなく、この地に生まれ、この地生きる私たち人間が自らの強い意思で、立ち上がらねばならない事を示しています。ですから地涌の菩薩とは、皆さん自身であり、私たちのことなのです。

地涌の菩薩には四人のリーダーがいました。上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩の四人で、中でも上行菩薩が我等の大導師です。

しかし、不思議なことにお釈迦さま以外、誰もこの菩薩たちの存在を知る人はいませんでした。他の経典では、お釈迦さまの次に仏として現れるとされていた弥勒菩薩でさえ、彼らの一人も知らないのです。

ですから弥勒菩薩は、お釈迦さまに問いました。

「お釈迦さまが出家しお悟りを開いてから40数年余りの時間で、これだけの多くの高貴な菩薩たちをいつ教化されたのですか?」

この弥勒菩薩の質問が、お釈迦さまの寿命に関する新事実を明らかにすることになるのです。

7. 如来寿量品第十六

「仏の統一」

弥勒菩薩の質問に、お釈迦さまは今まで誰にも話さなかった真実を語り始めました。

「皆さんは私が若かりし頃、釈迦族の王子としての身分を捨て、生まれ故郷の伽耶城を出て出家し、菩提樹の下で初めて悟りを得たと思っていることでしょう。ですが、本当は違うのです。私は実に、無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫という久遠の昔に悟りを得ていました」

お釈迦さまは、自身の寿命が過去にも未来にも永遠であることを告白されたのです。

「私は久遠という永遠の時間の中、様々な世界で法を説きました。ある時は然灯仏という名前で現れ、これまでみなさんに話した仏の存在はすべて、私の仮の姿です」

有名な極楽世界の阿弥陀如来も瑠璃光世界の薬師如来もあらゆる仏さまは皆、久遠の寿命を持つお釈迦さまが、姿や名前を変えて現れていたということです。だからこそ、お釈迦さまはこの法華経説法の会場「虚空」に、全ての仏を瞬時に集めることができたのです。

この久遠のお釈迦さまのことを、根本や本体という意味から「本仏」と呼び、全ての仏は『法華経』において「本仏」に統一されるのです。そして「地涌の菩薩」は、この「本仏」が久遠の昔に育て上げた大菩薩たちであって、「地の下の虚空」という場所でお釈迦さまからの要請を待ち、修行を重ねていました。ですから、弥勒菩薩でさえ誰一人この高貴な菩薩達を見た事がなかったのです。

しかし、久遠とは本当なのでしょうか。歴史上のお釈迦さまは80歳で入滅します。この疑問にお釈迦さまはあらかじめ答えを用意していました。

「私の身体が永遠不滅であるならば、人々は仏にはいつでも会えると思うでしょう。ですから、私はあえて入滅するのです。そうすれば、人々は仏に会いたいと思いを強くし、努力するでしょう。私の肉体は滅しても、実の死ではありません。その教えは滅することはないのです」

さらにお釈迦さまは、私たちの生きるこの土地についても真実を示されました。

「我らのこの土地こそ神々や人々が安穏に住むべき永遠の浄土なのです」

人々は錯覚していました。誰もが憧れる理想郷「浄土」とは、何処か遠く特別な場所にあると思っていたからです。しかし、私たちが立つこの地球、まさにこの土地こそが「浄土」だったのです。

「いつもあなたと共にいるよ」久遠のお釈迦さま「本仏」は、この今も皆さんと共におられるのです。

8. 常不軽菩薩品第二十

「法華経修行の実践」

信じ難いでしょうが、私たちはかつて「本仏」から久遠の昔に大切に育まれた「地涌の菩薩」なのです。
それを知った今、私たちはどのように生きて行けばよいのでしょう。

お釈迦さまは、その生き方のモデルとなる「常不軽菩薩」という人物を私たちに紹介されました。
法華経第20章。お釈迦さまは、語り始めました。

「この菩薩の特徴は、僧侶の姿をしながら、誰も彼がお経を読んでいる姿を見たことがないというところです。ただ、どこからともなく現れて、道行く人々に深々と頭を下げ合掌し『私はあなたを敬います。決して軽蔑しません。なぜなら、あなたは仏さまになられる方ですから』と告げて歩き回りました。人々は彼をバカにして『常不軽』というあだ名をつけて悪口を言いましたが、常不軽はそれをやめようとはしませんでした。ついに人々は石を投げ、杖で叩いたりします。しかし、常不軽は怒りません。とにかく、いつもいつも人々を礼拝し、敬い続けたのです」
実は修行とは、経典を口で唱えるだけでは満点とはいえません。お釈迦さまは、このお話から法華経をさらに身と心で読む実践がとっても重要であると言いたいのです。

法華経は「全ての人が仏になれる」と説かれた経典。常不軽菩薩は、これを身と口と心で読んだ人でした。

実はお経を読まなかったのではありません。もうすでに法華経を読み込み、法華経の教えが彼の血肉となっていたからこそ、このような実践修行が出来たのです。

まさに常不軽菩薩は、法華経修行のプロフェッショナルでした。我々も彼のように法華経を実践し生きようではありませんか!それが出来れば、この地に敵はどこにもおらず、争いは起こりようがありません。

出会う人は、みな仏だからです。

9. 如来神力品第二十一

「日月のごとき人」

ついにお釈迦さまは、自身の滅後に法華経を説き弘める真の後継者を指名するのです。もちろんそれは、地涌の菩薩たちに他なりません。

お釈迦さまは、地涌の菩薩のリーダーである上行菩薩に告げました。

「仏の全ての法。仏の全ての力。仏の全体。仏が人々を救い続ける事実。これら全てをこの経に納めました。地涌の菩薩たちよ!これを私の滅後、この世に弘めてください」

さて、この経とはもちろん『法華経』のことです。正式名称を『妙法蓮華経』といいますから、お釈迦さまは、漢字にして僅かこの「五字」の中に全てを凝縮し、地涌の菩薩に託しました。この「五字」こそ末法を救う「教え」なのです。

「後は任せたよ!」

大役を任された地涌の菩薩たちは、この後お釈迦さまの滅後二千年以降の「末法」と呼ばれる、最も世の中が荒廃する時代に現れ活躍することになります。

事実、法華経に予言される迫害に遭い、この『妙法蓮華経』こそが「末法」を照らす唯一の法であると世に獅子吼したのが日蓮聖人です。

日蓮聖人は、この『妙法蓮華経』に帰依と言う意味の「南無」という2字を加え、「南無妙法蓮華経」と世界で初めて「御題目」を唱え、世に弘めました。

まさに、日蓮聖人は我ら地涌の菩薩のリーダー「上行菩薩」なのです。

そして、お釈迦さまは、地涌の菩薩が現実に出現する時、どのような人物として仕事を成すのかを予言しました。
「太陽や月の光があらゆる闇を除くように、この人もまた世に現れ、人々の闇を滅するでしょう」

我ら地涌の菩薩のリーダー上行菩薩は、お釈迦さまとの約束を忠実に守り、経典の通り世に出現したのです。
これが「法華経が真実を説く経典である」と言える動かぬ証拠でもあります。

益々混迷する世界情勢。私たちも地涌の菩薩の一人として、日蓮聖人の後に続かねばなりません。

10. 嘱累品第二十二

「法華経サミット閉幕」

お釈迦さまは、この『法華経』において全ての「教えを統一」し、全ての「仏を統一」し、さらに滅後の後継者を定めて生涯における最も重要な大仕事を成し終えました。法華経ドラマは、エンディングを迎えます。

法華経第22章。お釈迦さまは、虚空に参集した無数の仏さまに対し「どうぞ、それぞれの世界へお帰りください」と宣言されました。ここに「法華経サミット」が閉幕するのです。すると、「虚空」の中心に浮かんでいた「宝塔」の扉が、おもむろに閉まり始めました。

まるで永遠の時間と空間を、そこに集結していた無数の仏や菩薩を、一切合切を、塔の中に吸い込むように閉まるのです。
気づけば、私たちは夢から覚めたように霊鷲山の山頂、元居た場所に立っていました。私たちは「霊鷲山」という現実世界を起点として「虚空」という仏さまの理想世界に行き、そうしてまた「霊鷲山」に帰ってきたのです。

さて、法華経のこのような行ったり来たりの場面設定には、大切な意味があります。それは、法華経が仏さまの理想世界を説きながらも、いつでも軸足は現実世界にあり、むしろ現実を離れては、理想などないことを示しています。

ですから「虚空」で見た、ファンタジーのような世界は、すべて実現可能ということです。地から涌き出た数限りない高貴な菩薩たちが活躍する時が必ず来るということです。久遠の命を持つ仏さまは、我々の日常の何処にでもおられるということです。理想と現実は表裏一体。

ただし、その二つを繋ぐのは、私たちの信じる心一つであります。

11. 陀羅尼品第二十六

「法華経の番人」

法華経終盤の6章はドラマのエンドロールとして「これから法華経の教えに従って修行しよう!」と志す人にとって心強いお守りとなるお話が説かれています。

法華経第26章。お釈迦さまの御前。勇猛果敢に進み出て、高らかに誓いを立てる者が現れました。

「私が法華経を受持する者を守護いたします!」

それも一人ではありません。「薬王菩薩」と「勇施菩薩」の二人の心強い菩薩でした。その後、いかにも屈強な姿の「毘沙門天」と「持国天」が続きます。こちらの二人は東西南北を護るという四天王のうち北と東の守護神です。

さらに「鬼子母神」と「十羅刹女」のグループも手を挙げました。彼女らは、元々人を害する鬼神でしたが、お釈迦さまの導きで改心した強く優しい女性の善神です。

ずらりと並んだ「法華経の番人」。それぞれが、口々に「陀羅尼」という呪文を唱えて誓いを立てたのでこの章を「陀羅尼品」と言うのです。

この「陀羅尼」。昔から唱える音に不思議な力が込められていると伝わっています。その力とは「善なる心を護り、悪なる心を退ける」という強力な力だそうです。

ここで言う善とは、法華経を受け持つ心。悪とは、法華経の教えから遠ざかろうとする心のことです。
そしてお釈迦さまは「法華経の番人」たちに告げました。

「法華経の名を受持する者をしっかり護るのですよ!」

「法華経の名」とは「妙法蓮華経」のことです。受持とは、帰依するという意味の「南無」することです。ですから、私たちが一度でも法華経を受持する心を起こし「南無妙法蓮華経」と唱えれば「法華経の番人」は動きます。そして、困難や誘惑を跳ね除け、法華経の修行者を守護する強い味方となるのです。

12. 普賢菩薩勧発品第二十八

「終わりの始まり」

法華経ドラマは最終章。気づけば法華経のお説法が始まって8年の歳月が経ち、お釈迦さまも御年80歳。
心の内をすべてこの経に説き尽くし、いよいよ説法の座を立とうとされた時です。

東方より霊鷲山に一人の客人が現れます。それは、六つの牙を持つ美しい白象に乗った普賢菩薩さまでした。
そして、終幕に相応しい問を投げかけられたのです。

「お釈迦さまの滅後、どのように修行すれば、法華経の心を正しく会得できるのでありましょうか。お教え下さい」

お釈迦さまは明瞭にお答えになられました。

「一つ、仏さまにいつも護られていると信じること。二つ、善い行いを自ら進んで行うこと。三つ、善き仲間を見つけ努めてその輪に入ること。四つ、生きとし生ける者を慈しみ救いの心をおこすこと」

これが法華経を締め括る「四法成就」という教えです。

最後までお釈迦さまの前に座り、法華経説法を聞いた皆さんは、すでに「仏の子」「地涌の菩薩」です。

さあ、法華経説法終幕の時が来たようです。お釈迦さまの眼は強く、遠く、霊鷲山のその先を見ています。「仏の子」が世を照らす未来を見ているのでしょう。大いなる歓喜が霊鷲山を包んでいます。私たちは礼を尽くし、お釈迦さまの言葉を深く胸に刻んで歩み始めるのです。

さて、法華経をドラマとしてダイジェストで読んで参りました。最後までお読みいただきありがとうございました。これが良縁となり、世界中の人々が実際に『妙法蓮華経』を手に取るきっかけになれば幸いです。法華経の教えによって、平和な世界「仏国土」が実現することを願うばかりです。

南無妙法蓮華経 筆者合掌